昭和五十六年十月三十一日 朝の御理解


 御理解第二十二節
「天地金乃神と云へば天地一目に覧て居るぞ、神は平等におかげを
授けるが、受物が悪ければおかげが濡れるぞ、神の徳を十分に受けやうと思へばままよと云ふ心を出さねばおかげは受けられぬ、ままよとは死んでもままよの事ぞ」


 神の云ふ事をきかんと云うか、子供でも親の云う事を聞かん子が一番つまらんとこういう。折角の教えを頂いても頂いただけでそれを実行しなければ本当につまらんと云う事になるのじゃあないでしょうか。どういう所からか結局おかげ頂きたしと云う所をと信心をいよいよ頂きたい、身につけたいというような本気でその事を思うたらね、神様の云われる事を聞く、云う事を聞く、一心の信心がでけるのじゃないだろうか。ね、まあ始めから教祖の御教えをそんなに、それがそうに守れるもんじゃないというふうにたかをくくっておるような所がありはせんだろうか。実際に取り組んでみると、教祖の御教えはいとつも難しい事はない。本気ではまって頂けばであります。ね、ただ日參をする。ね、いろんな願い事の成就を願う。だからそのお取次ぎをまあ願うわけですからそれを金光大神が取り次いでくださる。そすと又、それに対して今度はお取次ぎを下さるのが御教である。お取次ぎを願いお取次ぎを頂くと云うのは、そういう事だと思う。だから頂いて帰らなければ、私はこのところを簡単に神の云う事はもう途中で落してしもうてといったようなふうに表現しとられますけれども、そういう信者がもう多いのじゃない、*んどじゃないだろうかというふうに思うですね。だからそういう*んどのなら信者は例えば信者氏子とこうよびかけられるわけですけれども、そういうなら信者氏子でも、親の云う事を聞かん子が一番つまらんと云う事になるのじゃあないでしょうか。私はこれは信心のない信心の事などには耳も傾けないというような人逹の上にだけかのような感じでしたけどね。信心を頂いておっても云う事をきかん子が一番つまらんと云う事になるのじゃあないでしょうか。ね、おかげは頂きますけれども信心を頂くこうとしない。問題はそこへ本気でその気になるという事。しかもその気になったからと云うてまあここでは構えを作れば楽だと云うけれども実際問題としてはですね、やはりまあ何んと申しましょうかね、神信心がだんだん進んで来る。教祖様御晩年のころはもう参って来る信者氏子には、おっしゃった事は、「信心に実が入って来ると、神様のおためしがありますぞ」と云う事であったと云う事です。だから例えば、そのおためしとてもです、本当にはまっておけばおためしとすぐに感じる事もできるし乗り越える事もできるのだけれども、信心しておってどうしてあれだけお願いしとったのにどうしてといったような事になってくると、もう信心はそれまでなんです。信心はいわゆる止まっておるのである。信心を本当に身につける。
 中国の古いお話にこんなお話があったと思うのです。或る青年が、そりこそ青雲の志を立てて都に勉強に上がろうと、その朝或る橋の上で白髪の老人と出会ったとこういう。でその老人がその青年をしげしげと見ながらお前は大きな志を立てて都に上がろうとしておるが今のような心がけでは駄目だぞと、明日の朝ね何時にここの橋で会おう。そして云うならば立見出世する為にはこういう心がでがいるという、まあ云うならばまあ虎の巻きとでも申しますかねを教えてやろう、渡してやろうとこう云うた。だから一応思い立ったけど、一応帰って明くる朝又行った所がもうすでに老人は来ておった。
 そして今日は駄目だ。又明日の朝。明日の朝もやっぱり老人の方が先にもう来ておった。ねそれで三日目にはもう今夜は寝らずにねおこうと思うて早くから行って待つとったらようやく向こうの方から老人がやって来たと云うのである。そこでならはじめてそのまあ何か伝授を受けるというか、教えを受けるという事になるとおもっておった所がその老人が橋の上から自分の履いておる靴を捨てた。そしてあの靴を拾って来てくれとこう云う。まあいうならば失礼な爺だと心に思うたかもしれんけれども、まあ年寄りが云う事だからと思うて、その靴を拾いに行ってこう老人にそれを履かせて上げた。始めてその老人がね折角都に上がるならこういう事、これこれだけは身につけて、これこれだけの心がけ、こういう心がけでと云うてまあ何というでしょうかね、その教えをしてたという、何かそんな話を昔何か聞いた事があるように思います。ねですからね、そんなら教えを受けるというのですから、その教えを受ける者の姿勢というものが、私は話されたお話であると思うですよね。ねだから本気でその云うならば教えを受けようと思うならば、やはりその老人よりも一足位先にです、行って老人をむしろ待つ位な気持ちがなからなきゃあならない。反対である場合はそれを教えなかった、しかもならそういうあり方の中にでも云うならばいよいよの時には、云うならば、靴を拾ってこいと云ったような事になったんだけども、そこを頂きぬいてはじめて教えを受ける事が出けたと云うように確かに教えを受けるとか、神の云う事をと云う事はそのまま教えでしようが、その教えを受ける本気で頂くという姿勢の中にはそういうものがいるように思うのですね。いわゆる本気での構えというか精進。ただ通り一遍では、通り一篇である。ねですからいよいよ本当なものに触れたい、本当のものが頂きたいという私は構えを作らなければ、作ってもうそれこそ頂いた御教えを本気で行じようとする、守ろうとする。私は、合楽の場合にはその教えというものが非常に何と云うのでしょうかね、あのう、沢山にまあ云うならおごちそうを頂くでもね、一品か二品位なら頂くけれども、あんまり御膳にいっぱいでておると、どれから頂いてよいやら分からないちいうようなね、事がありましょう。見ただけで腹がいっぱいになるというような事がありましょう。そういうような事も、そういう気味もあるのかもしれんと思います。合楽の場合は確かに。ですからよっぽど心がけて腹をすかせておかんと、いうなら食欲すらおこらない。本気で信心を頂くというその心なんです。今日はどういう御理解頂くだろうか、今日はどういうおごちそうが、出るじゃろうか、というような本気で構えをそれをこれだと、今日はこれを頂いて帰らにゃあとなってこないと思うです。ね、そういうなら精進をさして頂いておってもです、ね、その白髪のおじいさんが自分よりも一足でも遅かったら教えられなかったというように、又いよいよその事は青年は真面目な青年だと思うたけれども最後にはそういう一つの試しのようなね、いわば靴を橋の下に投げ捨てる、そしてそれを拾ってこい*というような理不*とも思われるような所も通って初めてまあ合格。そして*すものを*す、教えるものを教えるというようなね。そういうような所が私は、これは何でも同じじゃろうと思いますけれどもね、信心にはそれがあるように思います。ですからそこん所をね、あのう腹に入れときませんと信心の稽古をするというてもね、神様のお心の奥が分からん触れる事が出けない。ね、本気で信心を頂こうとするなら、本気で頂こうとするから信心がだんだん身についてくる。いうなら有難うなってくる。だから本当にどの位有難くなっておるだろうかといわば神様は試される時もある。ところが今までの有難いと思うておったのは、アッというまに消えてなくなる。そうすると、今までの有難いと云うのはほんなもんじゃなかったなあというふうになってくるわけね。だからそういう私は、あのう信心の受け渡しと云うてもそうですね、親の云うことを聞かん子が一番つまらんと、神の云うことを、いくら参って来とっても一つも云うことを聞かん子がつまらんと云うことになるなじゃないでしょうかね。そこでなら神の云うことを聞こうという腹が出ける、構えが出ける。
 構えが出けたからと云うて、ならとんとん拍子という事ではない。そこにはやはり神様としても試験とでも申しましょうか、お試しをなさらなければならない神様の立場というのがあるということ。ね、勉強を教えて一年なら一年たったらね、本当にどの位な勉強が出来たであらうかと云うことを試す。それが試験である。ね、その試験に合格してはじめて又、上の学校へこう進む事が出けるようなもんです。信心も同じね。それをその気になれば楽しゅう有難う愉快に勉強が出来てそれを身につけていく事が出ける。ね、それにはやはり教祖の言葉の中におさび替えというのがありますね。お言葉の中におくり合わせとか、いろいろありますね、それが中に「おさび替え」という言葉がある。さびられるということです。ね、こうなら**合楽をとおしてまあ本当に沢山な人が助かったでしょう。沢山な人が参って来たでしょう。ね、はあこの人はと神様が云うなら目をつけて下さるようなところもあるけれども何かの調子にお試しをうけると、もうそれでピシャっと止めて挫折してしまう人が沢山ある。ね、本当なものじゃなかった証拠。そういうのを神様がそれをなさるのです。さびられるのです。だから実のあるとだけがのこって*いとやらからやらは飛んでしまうわけです。本当なものを頂く人間がこの世に生を受けて来たというのは本当はあの世の為にこの世に生を受けたとさえいわれるのですから、そういう****あの世へも持っていけれる程しの子孫にも子供にも残しておける程しのものを神様は下さろうとしておるのですから、それを頂こうという私は構えをね、作ってからの信心でなからなければ信心を頂いておっても毎日日参をしておっても云うことを聞かん子が一番つまらんと云うことになるのじゃないでしょうかね。これはたしかにね、楽しいですとか、有難いですとか云わゆる。あのう、まあその気になれば楽しゆなるのであって、ただおかげが目の前にぶら下がっておると、やはり損なうようですね。結局本気で信心を頂こう、それこそあの世にも持って行ける程しのものを身につけたいという、私は信心がその根底になからなければ本当の信心、ただ参ってくるだけ拝んでおるだけ、そして居るのにもかかわらず、親の云うことを聞かん教えは頂かないというならば、こんなつまらん事はない。ね、これはそんならこうしてお話しさして頂いとる私自身もやはり、何十年間という間はやっぱそれであった。まあおかげで、おさび替えを受けずにまあとんでおらず細々ながらも*ってはおった。それがいわば何かの調子に、機会にですね、こりゃいままでの信心ではということに気がつかせてもろうていわゆる本気で信心に取り組ませて頂いて構えが出けて、そしてなら今日の合楽の信心がありますから皆さんとてもはじめからどうと云うことじゃないけれども、信心を本気で身につけようとする、ただあのう参ってさえすりや分かるとか、いよいよ一通りの事を覚えたという事だけの事ではなくて、それをいよいよ血に、肉にする為には、ねただ合楽で思われるのはね、あまりにもおごちそうがあり過ぎるということです。ね、だから食欲さえかえって失ってあのうするような場合があるのですから、本気でいわゆる日々を実験実証、本気で働く事によってお腹が空きます。お腹がすきますからその日々のおごちそうをね美味しいとして頂くから、それが血にも肉にもなるという事になります。だからね本気で教えを守ってないと一通りの事を覚えるとですね信心が必ずうすくなるですね。もう大体合楽の信心はこうだと、もう親先生の云われる事はもう磨きかけ改まれという事ばっかりだと、確かに
 そうなんですけれどもね、その為あらゆる角度からの信心、日々の信心の云うなら実証と云うか、私の体験というか、又新たに神様が教えて下さる事いわゆる神の知恵を*って説かれる御理解というものが、でもです、もう或る程度の所が分かったらもうそれでたかをくくって本当なものが頂けんなりに終わるという人も沢山あります。ね、まあさびられるという人も勿論沢山あります。けれども折角こうしてあのう、縁を頂いたのですからね、信心の心がけというかね、と云ったようなその支那の古事ではないですけれども、ね、何でもあのういわゆる免許皆伝と云うようなところまでのおかげを頂くことのためにはね、どうしてもいわゆる教えをうける者の姿勢というものをいよいよ作っていかなきゃあいけんと思いますね。
                        どうぞ